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にげみち。

「ichiei」の雑文置き場。最近、短歌に凝ってます。

2013/10/08 一首と一句 

わが家の少年詩人午前四時のひぐらしをききてふたたび眠る/木俣修『去年今年』
【家】のロゴは【いへ】。わかりやすい歌だそして浪漫がある。「ふたたび眠る」ということはいままで眠っていたというわけで、そこから「少年詩人」の不調がみえる。実際、これは亡くなった長男を歌ったものだった……よね?(曖昧) 「少年詩人」という表現もちょっと甘い気もするけど、だが、端々からうかがえる愛情をおもうと受け入れられる。



目に見えぬ塵を掃きたる寒露かな(手塚美佐)
「目に見えぬ塵」は解釈のしがいのある言葉ですな。空気中の微粒子まで寄せるようにさっさっと手際よく箒を動かしているとみてもいいし、表面的な汚れをのぞくことで精神的な鬱屈を取り払おうとしている、と考えてもいいし。他にもありそう。ただ何故季節は「寒露」なのか、が、問題だ。露が凍りそうになる季節。目に見えぬものですらわずかに固体となる瞬間があるのかもしれない。冬のまっただなかの雪のようにあからさまでもなく。
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2013/10/07 一首と一句 

ずっと手抜き。

カテドラルが夕映えの髪を梳かしをり 春のかなしみ春におさめよ/日置俊次『ノートル・ダムの椅子』
旅の歌らしい。そして、男性の歌人か。「髪を梳かしをり」という表現から連想するのは女性だから……自分のことじゃなく、旅先でみた女性の写生かなあ。異国では身体のひとつひとつが違った重みをもっていそうだから、自分自身のことだっていいわけだけど。旅のかなしみは旅においていく、旅のまえのかなしみも旅のなかに入れ込めてしまう、そしてどうしようもない日常に還る。




木曾節を寂しと聞けり水の秋(鈴木圭子)
木曾節ってどんなだっけ、と、ぐぐってみる。
木曽節 - Wikipedia

木曽地域に近世から伝わる民謡で、木曽の良材を河川に流して運ぶ「川流し」をモチーフに、木曽の自然(木曽川とまわりの山々)と人情を朗々と歌い上げている。


ああ、こりゃたしかに水の秋ですね。木曾節を背景に秋の川を下る筏……でも「寂し」なのか。いったいなにがさびしいんだろう。秋だから、という理由でないんじゃないかな。うーん、過疎とか? なんか違うなあ……。
ところで「水の秋」と「秋の水」の違いは、自分は、大きさかなと受け取った。掌に掬った水、空を映す小さな水、水道水でも自然水でもどっちでもいい、夏に比べていささか感度の上がった液体が「秋の水」、対して川とか湖とか貯水池とか、湖沼とその周辺の風景が「水の秋」かと。ま、ただの私感です。

2013/10/06 一首と一句 

あまりに遅れすぎてるので、超手抜きでいきます。

体温計振って なかったことにする三十七度八分のわれを/藤島秀憲『すずめ』
素朴だが切実な歌だ。たった37.8度(何故これがたったなんだろうね)では日本という国では、なかなか堂々と休みをとれない。だから「なかったことにする」。でも、この体温計は電子体温計な気がするなあ。水銀計とちがってふったって意味ないのに。まあ、どっちにしたって熱が下がるわけでもないんだけど。「振って」と「なかった」のあいだの空白が印象的、一瞬のためらいをよく表している。




宵闇のかたちとなりて牛がゐる(北澤瑞史)
俳句って牛の出番が多いな。というか、これは自分の知識の足りなさを露呈しているだけか。牛という動物の独得の詩情のせいかもしれない。けっこう大きい、農業の象徴、牛乳・牛肉・牛革とと生活にもなにかと使われる、のんびり、だから大きさのわりには「被害者」という側面がクローズアップされやすい、でも闘牛ってのもいるし、近い生き物のようででも遠い、少なくとも町中にはなかなかいない。なるほど、そりゃ使いやすいわなあ。くわえて俳句にとっちゃ季語でもないし。暗闇の中のぬっとした牛、ほんの少し哀しみのようなもの(でも実際にはちょっと違うもの)のような形をしてそこにある。

2013/10/05 一首と一句 

実質2013/10/07に書いてます。手抜きですー。

折りたためばわたしは小さな蝙蝠傘になるだらう今日こんなに疲れ/永井陽子『ふしぎな楽器』
えらい字余りの多い歌だなあ、つまりそんな整合性にかまっていられないほど疲れてた、とこういうことでいいんでしょうか。一瞬ただの傘でもいいんじゃないかと思ったけど、やっぱり蝙蝠傘でないと駄目っすわ。あの実用一点の無骨なシルエットでないと、サラリーマンの使いさしのような黒黒としたフォルムでないと、疲れたかんじがでない。



日を月を招く障子を貼りにけり(磯部てい子)
ああ、障子とともに暮らしているのですね。今はちょい障子から遠い暮らしをしてますが、昔住んでいた家にはどの部屋にも障子と襖があった。日をやわらかくまっしろく遮った。そんな日々ももう遠いなあ。

2013/10/04 一首と一句 

遅れ気味なので手抜きモード

一粒の卵のような一日をわがふところに温めている/ 山崎方代『迦葉』
本のタイトルがちょっと自信ない。山崎方代はしっかりと詠んでみたい歌人なんだが、今ならどんな書籍を読めばいいんでしょうかねぇ。この「一日」は終わったものだろうか、これから来るものだろうか。卵だから未来か? でも、いつか孵るかもしれない過去と考えるのも面白い気がする。



兄弟の多かりし世のさつまいも(保坂加津夫)
あら、かわいい。芋って1本引っこ抜くとごろごろと沢山ついてきますものね。きょうだいって言葉のせいかな、芋掘り遠足のような和気藹々とした風景を連想するぜ。

2013/10/03 一首と一句 

ちょっとメンタルだめだったみたい。ま、なんとか追い付けるといいですが。

木場すぎて荒き道路は踏み切りゆく貨物専用線又城東電車 / 土屋文明『山谷集』
土屋文明氏の歌が好きです。「貨物専用線≪又≫城東電車(じょうとうでんしゃ、当時の都電という認識でいいのか?)」という文脈らしい。都会の歌。ちょっと主体がぶれている歌、おそらくはわざとだろうけど。それによって特別なものであるかのように、線路が浮き上がってくる。都会の線路は保護されてない分、たしかにちょっと荒い気がする。



秋の蛇療園の森遠長し(石田波郷)
遠長い森って鰻の寝床みたいってことかな……これが自分の第一の感想だったりする。いや、違うな。療園を通る道が遠長いってことだ。弱い患者にとっては外界は遠い。外への途中にある森も当然長い。でも、これ退園の道程って解釈でもいいな。体力の落ちた人がゆっくりゆっくり療園の森を抜ける。秋の蛇とは真逆に、動くために、外へ行く。

2013/10/02 一首と一句 

毎度遅刻気味です。少しずつでもいい、毎日やりたい。
かの人も現実に在りて暑き空気押し分けて来る葉書一枚/ 花山多佳子『空合』
【現実】に【うつつ】というルビ。花山氏の歌が連続してますが手抜きじゃないんですよ、適当にNHK短歌やらなにやら開いて「あ、これにしよう」と思ったのがたまたま連続しちゃっただけなんですよ(手抜きじゃ内科)。葉書一枚分の質感はたいしたことないはずなのに、この歌だとたしかな重みを感じる。まるで葉書そのものが意思を持ってこちらにやってきた、というような。ぬらっと魚みたいに泳いできたような。夏の暑さのなかでは、そこにあるはずの現実はちょっとだけ遠い。



能なんて何年見てないんだろうなあ。地方住まいじゃあ歌舞伎は無理だが、幸せなことに能はなんとかなる地域にいるので、たまには見に行きたいとは思ってるんですが。能舞台っていいよな、能をしていないときですら、いい。あの独特な作りに思いをやるときは、精密機械に目を奪われているときと似たようなときめきをかんじる。なんでだろうね、まったく似てないのに。どちらも職人芸の賜物だからなんだろうか。あ、ただの思い出語りになっちまった。でも、人がいる能舞台は別の意味で「冷ゆ」な気がするの。緊張感は背筋をぴんとさせる。つめたい(これは冬の季語)。

2013/10/01 一首と一句 

バス停の背後のみ花を植ゑてある奥行きのなき町に戻り来ぬ / 花山多佳子『空合』
平面的な風景。自分の家の近所にもそんなとこがあるなあ。ものすっごく薄い(奥行き1メートルそこそこ)ビルとか。でもそんなちゃちな街でも自分の街なんだなあ、と、帰ったときに思う。昔大きく見えていたものが今見るとうすらよごれてちいちゃい。でも、捨てきれない。タオルで作ったぬいぐるみみたいに。手垢のついたものってそうなるだけの理由があって、つまり使いよいんだよね。




天高し人生なんと恥多き(鈴木真砂女)
「天高し」と「秋高し」の違いは何か、と俳句ポスト365の影響で考えてたりしてた。自分は今日の空と季節全体の空と解釈してた。……浅い、浅いよ解釈が。とにもかくにも、この句は「天高し」の部分「秋高し」じゃ置き換えられないよなあ。「天高し」と言い切ることでびしっと青い空の一点、天頂がみえてくる。秋高しはいつか見たスキー場の空をおもいだす。スキー場といっても冬にみたんでない、残暑の濃い秋、つまりただの山。そっから見たまるくて大きな空を思い出す。

2013/09/30 一首と一句 

題詠blog2013もいいかげん本腰入れねば。わりと書けてはいるがトラックバックがめんどくさいってのが、もうなんか駄目で、つまるところ自分は駄目人間です。

蒲団より片手を出して苦しみを表現しておれば母に踏まれつ/花山周子『屋上の人屋上の鳥』
小さい頃は苦しいごっこをしてたようにおもう、自分も。怖い話を聞きたがるのとおなじで、死ぬほどの苦しみを安全なところから味わってみたかった。別にそれは冒涜じゃあないんだよなあ。
この歌とは直接関係ないが、お母様の「学校へいじめられに行くおみな子の髪きっちりと編みやる今朝も/花山多佳子『草舟』」はなかなか強烈ですよな。それに対する花山周子氏のコメントもふくめて。



やまびこのゐて立ちさりし猿茸(飯田蛇笏)
やまびこの擬人法……でいいのかな、これ。やまびこはただ通り過ぎるだけのものかと思ってたけど、この句だとほんの一瞬かも知れないけれど、滞在している。そのあとに猿茸、ましらたけの本意はなんだろうな。イメージとしては他の植物よりもどでんとしている、でも、ちょっとまぬけなかんじ。楽器でいえばファゴット的な(ファゴット好きだ)。つまり、存在感? 圧倒的ではない、かといって無視できるほど小さくもない、厳つい静かな重量があとにはのこされている。

2013/09/29 一首と一句 

手抜きです。いつものこった。

象来たる夜半とおもへや白萩の垂るるいづこも牙のにほいす /水原紫苑『うたうら』
【夜半】は【よは】とルビが打ってある。「象」と「白萩」の組み合わせは最強、そしてまた最後に「牙のにほいす」ときたものだ。幻想的な仏教の風景(御釈迦様の誕生っぽい)をおもいださせる。でも「牙のにほい」ってどんなものだろ? けっしていい匂いではない気がする。獣の匂い、でも、肉食ではない匂い。普通の考えであれなんですが、動物園の匂いかなあ。だけど、あれは生命の匂いだ。植物とちがって生きてゆく動物はどっちかというと臭気にまみれている。でもそこに、白萩が垂れてくる。そこにほんのすこしの救いがある、救いか? どっちにせよ、それだけではなくしてくれるんだ。




哀れ蚊やねむりぐすりも気休めに(石川桂郎)
蚊とかあいつらけっこう秋でもうるせええええええぜってい哀れじゃねええええええ人が寝ようとしている耳元でぶんぶんうるせええええええええええしかも尻を食うんじゃねええええええええええ。すいません、いろいろ下品で失礼いたしました。しかし、まじでねむりぐすりも気休めにしかなりませんよ。でも本当はねむりぐすりが欲しいのは蚊のほうかもしれない。秋になったんだからもう寝かせろよってことかもしれない。