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昔々。
山あいの谷間にぽつねんとたっている石碑は、国境のしるしです。ですからそこには警備の兵がいます。片方の国の兵はまだ少年といってもいいくらいに若かったのですが、初めて国境に着くや「これはたいへんなところだ」と考えました。国境とはいっても犯罪者以外は通過したがらないような、とても寂しいところだったのです。霧にまぎれて鹿の声が遠くからこだまします。そびえる御岳は真っ黒な巨人のようです。昼間だというのにどこか薄暗く、体がぼんやりとかすんでゆくような感じさえします。
「やぁ、初めまして」
突然の呼びかけに、少年兵は肩をふるわせました。銃剣をつかんでふりかえると、石碑の向こう側で少年兵よりも一回り半ほど年嵩らしい男性――つまり彼は向こうの国の警備兵なのでした――が、無邪気にほほえんでいます。少年兵は警戒を解きませんでした。他に何もない国境では一瞬の隙が命を彼岸へ連れて行く、少年兵はそのように教えられました。ですが、男は少年の挙動にいっこうかまう様子はなく、ものを掴んでいるらしい腕をひときわ高くかかげます。二度警戒した少年兵のすぐ傍らを、なにかが落下してゆきます。男が所持品を投げたのだということはすぐ気がつきました。警備兵といえど国境を踏むことは許されませんから。そんな乱暴な真似をしたのでしょう。
「どうか拾ってみてください」
少年はおっかなびっくりながら(それを表に出さないような努力は怠りませんでしたけれど)包みを開きます。なかには甘い匂いのする焼き菓子が3つばかり収められていました。少年兵が男のほうに向き直ると、男はてのひらで暈をつくって叫びました。
「新しい友だちへのお祝いです」
「……ともだち、ですか?」
「あなたが許してくださるのなら」
ずいぶんと長いことひとりきりで、とてもさみしかったんです。
ほんとうに屈託なく笑う男でした。少年兵もつられて笑いました。笑ったあとで「いけない」と思ったことは思ったんですけれど、焼き菓子の香ばしさにそんなことはどうでもよくなってしまいました。
さて、それからは二人、石碑越しによく話し合うようになりました。他に誰もいない土地です。国境を越えても誰も見とがめはしなかったでしょう。ですが、男も少年兵もけしてそうしようとはしませんでした。
「それ、が、私たちの唯一の勤めです。疎かにしては顔向けができません」
男はそんなふうに云い、少年兵もまったく賛成でした。誰に対しての顔向けか、ということに違いはあったかもしれませんが、男は説明しようとはしませんでしたし、少年兵もあえて訊ねようとはしませんでした。少年兵はここがなんとなく気に入ってきたのです。落ち着いてみると鹿の声はするりと心に沁みいります。真っ黒な山々も、よく見れば意外に愛嬌があります。なにより、友だちがいるのです。握手はできませんが、会話は可能です。あの男と立ち入り禁止の線を越えてやりとりしますと、何故かしらすぅっと気が晴れるようなのです。
しかし、時は残酷です。それとも無情を生産するすべての遠因を総称して時間というのでしょうか。
「私は戦争に行かなければいけなくなりました」
ある日、いつものように石碑のあちらで、男が静かに語りはじめました。
「幸いにもあなたの国とではありません。南の方の戦線です」
「そんな命令は無視してしまえばいいではありませんか」
「そんなわけには参りません」
あなたもよくご承知でしょう、と諭され、少年兵は口を噤んでしまいました。たしかによく分かっていました、兵隊にとって上からの命令というものが絶対であることを。無言をなんと思ったのか、男は初めて逢ったときとおなじ明るい笑みをつくります。
「そんな顔をしないでください。私はあなたとここでめぐりあい、毎日お喋りできて、とても楽しかったです」
こんなに気の合う相手は初めてでした、私はあなたと出逢えた偶然を感謝します、と付け加え、
「これはきっと、ゆきすぎた幸せな偶然の埋め合わせなんです。私はこれからたくさんの人を殺すでしょう、そのあいだは一切口を開きません、焼き菓子を焼く代わりに村をいくつも焼き払うでしょう、ここで過ごした日々が泡沫の夢であったかのように感じることもあるでしょう」
秘めやかに、秘めやかに。滔々と話し続けます。
「でも絶対に私はあなたを忘れません。それではあなたもお元気で」
言うべきことを言ったのでしょう、男はくるりとうしろを向きました。少年兵は初めて彼の後ろ姿を見たように思います。笑顔とは反対の、消え入りそうにはかない背中です。
思わず少年兵は手を伸ばします。掌は国境を越えます、しかし足は石碑のこちら側にあります、いつまでもあります。いつしか男がいなくなりひとりぼっちになっても、ずっとずっと少年兵はその場から動きませんでした。花のように、ひとり風に吹かれているのでした。
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投稿。没った。『偶然』『立入禁止』『後ろ姿』